誰よりも愛してる自信はあるけど誰よりも愛されてる自信はないから

さにゑさんが
"The Giving Tree" について言及してたので
何か自分も書き記したくなった。




大きなりんごの木がありました


木は毎日遊びに来る
その男の子が大好きでした
男の子は葉っぱを集めたり
幹を登り枝でブランコしたり
りんごの実を食べたり
かくれんぼしたり
木に寄り添い居眠りしたり…
男の子もまた木が大好きでした


でも時が経つにつれ
男の子は次第に来なくなり
木は寂しく思っていました


或る時久しぶりに
すっかり成人となった男の子がやって来ました
『以前のようにまた遊ぼうよ』
と誘う木に男の子は言いました
『お金が欲しい』


『これを売ればお金になるでしょう』
木は実ったたくさんのりんごを落としました


また或る日
大人になった男の子は
やって来てこう言いました
『家が欲しい』


『これを使うといいでしょう』
木は枝を差し出し言いました


そしてまた或る日
もう木と遊ぶことの無い
大人になった男の子はこう言いました
『ボートが欲しい』


『これで作ることが出来るでしょう』
木は幹を差し出し言いました


やがて年老いて
何も求めるものの無くなった男の子が
やって来てこう言います
『ゆっくり休みたい』


最後に
切り株とだけになってしまった木は
言いました
『わたしに腰掛けなさい』


老人となった男の子が
静かに腰掛けるのを見つめ
木は幸せでした

(The Giving Tree / Shel Silverstein)



彼は得てきた
だけど
彼女もまた得てきたのだろう


それぞれが
それぞれに
それぞれの“カタチ”でもって
時に“平和”であり
時に“犯罪”であっても
二人に流るる感情は
誰にも揶揄されない
誰にも知り得ない
誰にも阻められない
二人にとっての
二人だけの“真実”


でもね
現在の彼の胸に去来するものは何だろう
“時を経て”
いつだってそうだ
振り向くことでしか気づけずに
目の当たりにしているものは近すぎて見えない
辿る着地点が同じなら
“最初から”
そう知りつつも出来ずにいる愚かさ
後悔と自責の念に涙する


歯がゆいほどうまくいかないね


でもそれが“生きる”“生きていく”ってことなんだろう
でもそれが“愛する”“愛された”ってことなんだろう